同人文化講究 (es sphere 2nd season)

同人文化の潮流と即売会での実践についての思索

表現規制 - わいせつに関する法令と即売会ルール

前に述べた表現規制のパターンの話の続きです。同人誌即売会を主催してたりすることもある人の私的な見解としてご理解下さいませ。

当然だが、全ての(←と信じる)同人誌即売会で、刑法175条に基づく「わいせつ」図画の頒布は禁止されている。コミケットにおいては「コミケットアピール」において、わいせつを「性器の露骨な描写」、修正の目安を「商業誌に準じる」として、ルールに定めている。これが非常に便利な線引きなのか、コミックシティ・COMIC1サンクリといった主要な即売会は、同様のサークル向け案内においてほぼ同じ言葉を用いている。コミケットが近くなると、ネット上では「基準がアイマイだ」といった批判がなされたり、自称スタッフの友人による「修正例」なるものが出回ったりする。

ご存知の通り、何が法令的に「わいせつ」かは非常に曖昧で「チャタレー」や「四畳半襖の下張」といった判例を見ても、どこまで修正すれば法令的にセーフなのか、といったことは何も教えてくれない。そもそも、これらの裁判の対象になった作品は文章だから修正という概念すらない。マンガに対する「わいせつ」の判例では「松文館」があるが、これもチャタレー判例のわいせつ3要件をそのまま引いているので、新たな見解を与えるものではない。

※ 「チャタレー」や「四畳半襖の下張」が分からない人はWikipediaで調べよう

 

わいせつの基準が裁判官の専権事項である限り、誰かが引いた「基準」を満たしていても摘発されることはあるだろうし、逆もまた然りである。松文館事件発生の過程が示しているが、摘発の対象は警察によってCherry-Picking (つまみ喰い) 的に選ばれ、起訴されれば日本の優秀な検察が高い確率で有罪判決まで導いてしまう。確実な基準を引こうとすれば「エロシーンを描くな」的な話になり、判例にある「描写の程度」や「思想との関連性」といった要素を無視した、あらゆる絵やストーリーに適用できる厳しい線引きになってしまい、それは即売会を主催する側にとって本意ではない。

こうした意味で、主要な即売会が示しているわいせつについての記述 ( = 性器の露骨な描写、修正は商業誌に準じる) は、わいせつか否かを教えてくれるものではなく、

  • これがダメなら世の中ダメなものだらけ
  • それゆえ、恣意的な摘発を受けにくい
  • それゆえ即売会としてリスクが取れる
    ( = おそらく大丈夫だし、ダメでも会場等に説明が付くし、作家と一緒に戦える)

ということを示した、一つの"目安"なのだろうと、個人的には解釈している。こうした観点でも、コミックシティのR18解説にある通り、自分の表現の傾向に似た商業誌を確認して、温度感を合わせていくのが、一番良い対処法なのだと思われる。

オンリーイベント進化論 - "超会議的"という形容詞

毎度のことながら反応が遅くて恐縮だが、1-2週間前にTwitter上で「博霊神社例大祭が『超会議』化してきた」という話が回っていた。同人誌即売会が、ネット配信の活用やライブイベント、企業との大型コラボレーションを行っていることを、指しているのだと思う。本質的には外部環境の変化と、同人誌即売会の戦略という話になるのだけど、一歩下がってオンリーイベントについて、いくつか考察することから始めよう。

社史的な資料が残る歴史の長い大規模即売会とは異なり、オンリーイベントに関する資料やデータは散逸しており (これが今回の記事の問題提起の一つでもある)、仮説ベースでの直観的な話になることをお許し頂きたい。

オンリーイベント自体の歴史は古く、おそらくコミケットカタログのイベント広告のページなどを見れば、それを遡ることはできるのだと思う。2000年前後、インターネットの普及によってオンリーイベントは大きく変わった。男性系で言えば『Kanon』のキャラクターファンサイト的なものが多数立ち上がり、キャラ別のオンリーイベントなどが開催された。女性系で言えば「同盟」なるウェブリング (これも死語か) が立ち上がり、オンリーイベントの勢いは増していった。

ここで面白いのは、女性系は「主催/共催サークル」「協賛サークル」のような形の、サークルが主体となったオンリーイベントが多いのに対し、男性系はイベント主催団体のようなものがいくつか立ち上がり、スタッフ主体となったオンリーイベントが中心であった (ぷにケットとかは、中間的な性格を持っていたように思う)。この背景についてはいまだに正直よくわからないのだが、結果として女性系オンリーはアンソロジーの発刊やスタンプラリーなど、サークル的な"ものづくり”企画が多かったのに対し、男性系や即売会に特価しており、あったとしてもオークション、みたいな感じであった。

こうしたゼロ年代のオンリー黄金時代 (乱立時代と言うかもしれないけど) は、会場という制約条件によって終わりを告げる。都立産業貿易センター(都産貿)や大田区産業プラザPiOといったオンリーイベントの主要会場が、会場工事や競争激化によって大規模なイベント主催団体でなければ使いづらくなってきた。また、運営という面でもノウハウが蓄積しており、ボランティアスタッフのネットワークを有する継続的な大規模イベント主催団体と、そうでない団体・サークルに差が生まれてきた。こうした要因もあり、事務や運営のミスが原因でTwitterにより"炎上"が起きやすくなった現在、オンリーイベントは"簡単に開ける"ものではなくなってきた。

時を同じくして現れてきたのが「集合系オンリー」であった。男性系では『都産祭』だし、女性系でいえばスタジオYOUのオンリーイベントなどが該当する。大規模な会場を借りて複数のオンリーイベントを開催することにより、会場の割り方は申込状況に応じて後から考えられるし、直前で流行ったジャンルのイベントを追加開催することもできる。流行り廃りのあるオンリーを束ねることで、安定した開催基盤を得るという観点では、大規模なイベント主催団体ならではの戦略であったと思う。

ぶっちゃけて言えば、こうしたオンリーイベントで「食べている」人、ないしはそこに「アイデンティティがある人」が増えることによって、本来はジャンルの盛衰に応じて規模の変化あるはずのオンリーイベント(主催団体)を、一定以上の規模で安定継続する必要が生じてくる。そのためには、ジャンルとして盛り上がっている方向性に、オンリーイベントのコンテンツを進化させたり(もちろん、そっちの方が楽しいというピュアな理由もあるが)、その後継ジャンルを含むよう境界線を拡大させたりする必要がある。これら島田紳助の言うところの「X+Yの法則」であり、イベントが"一発屋"にならないための努力だ。ニコニコ動画というプラットフォームとの相性の良い東方Projectのオンリーに「超会議」との類似点が見出せるのも、こうした意味で当然なのかもしれない。

ちなみに、知人が「そんなに文句あるなら運営側に入ってこい」的な言い方をしていたけど、その言い方自体が「運営 / お客」という二元論を生んでしまっている。そういうところまで「超会議的」にならなくてもいいのに。

ヤフコメ的世界観 - 参加者によって引かれる表現の境界

昨年半ばくらいに、Yahoo!がヤフコメ (注釈するまでもないと思うが、Yahoo! ニュースのコメント機能) についてアンケートを取った際、Twitter界隈で少し盛り上がった。ご案内の通り、ヤフコメはヘイト的な言説や悪意のある表現がやたら多い。ヘイトについては色々な人が色々と言っているし、自分も一家言あるわけではないので、どちらかというと悪意のあるコメント-ここでは"嫌いアピール"と呼ぶことにする-について、少し述べた上で同人系の話につなげていきたい。

※ ちなみに、これを書くに当って見たセンター試験地理の『ムーミン』問題のニュースに、韓国語だけ平均点が高いのに得点調整がない、と全然関係ないことを書き込んでいる人がいて、早速がっかりしたのですが……

M-1に始まる年末年始のお笑い番組で、これ新しいなーとか、面白いなーという芸人が出てきて、Yahoo!ニュースに記事が取り上げられていると、必ずやヤフコメに嫌いアピールが出てくる。そりゃ、新しい表現というものはハマる人もいれば、ハマらない人もいる。そこに対して、自分のSNSに単なる感想として「自分にはハマらなかった」と書く(=反論に受けて立つ)ならともかく、敢えて匿名のニュースサイトで書くこと自体が「そうそう、私もつまんなかった」という同意を得て、自分が時代から遅れていないということを確認する作業なのだろう。

ヤフコメの主な層は40代男性ということで、こうした番組が主なターゲットとする(=広告主に取ってCMのROIが高い) F層の対極で、この人達にとってTVやそれが押す芸人が面白くないのは仕方ないといえば仕方ない。ある意味、もう既にフラれてしまっているのに、相手の心変わりを待って色々と言ってみるが、逆効果でさらに嫌われてしまっている状態に近い。

TVには電波の公共財という性格はあるが、番組や芸人っていわゆる嗜好品なのだから、口に合うものもあれば合わないものもある。ニンジンやピーマンと同じく「嫌いなものは食べない」という姿勢になれないんだろうか。嫌いアピールで可能性の芽を摘んでしまうのではなく、それがそこにあること、それを楽しんでいることは否定せず、ゆるやかに構えていたいものである、40代の大人なら特に。

※ そもそも、自分も嫌いならヤフコメ見なきゃよいじゃん……(メタ発言)

過去にコミケットカタログの配置担当者の一言コーナーに「コミケットはあなたの好きなものを守ります、でも嫌いなものも守ります」という言葉があって、相当な感銘を受けた。同人って誰もが創作者になりうるから「相手および相手の表現を悪く言わない」という文化がベースにある。それであっても、ハマらないもの (例: 逆カップリング) に嫌いアピールしてしまう人がいなくならないからこそ、前掲の「一言」なのだろう。

ハマる/ハマらないの議論ならまだ分かりやすいけど (ハマる/ハマらないを覆い隠すダミーの論理なのかもしれないが)、昨夏の後くらいにあった「真木よう子さんがサークル参加を表明、その後SNS上で炎上して参加を断念」という一件における「コミケ的である/ない」あるいは「理念に合致している/いない」論争をふと思い出した。

このとき、ヤフコメの嫌いアピールにも似た、コミケ的でないという言説がSNSで拡散していった。芸能人は商業でやってくれ (叶姉妹TMRは何だったんだ) とか、クラウドファンディングはダメだろ (昔から広告を取っいてる同人誌はいくらでもある) とか、色々な理由は付けられていたが、その言説を論理的に肯定する材料はあまりなかった。

このとき感じたのは、サークルや表現を受け入れる/受け入れないについて、コミケット準備会がルールとして設定したり、それに沿って判断したりという公式の境界以外に、参加者の排除の論理によって引かれる実質的な境界がある、ということである。

コミケットはその理念において

コミケットは場である以上、その実質は参加者や表現によって変化しつづけていきます。そして、この理念や考え方も、コミケットを共にとり行う参加者で共有される以上、時代の要請や参加者の入れ替わりによって変化していくのでしょう

と述べている。以前に論文で述べた立場であるが、コミケットの理念自体が慣習法のようなものだ。当初制定された理念に、前代表や共同代表があいさつ文や拡大集会で述べてきた言説や、岩田次男さんのようなインフルエンサーによる言説等が積み重なり、オリジナルとシミュラークルの区別が付かない、その言説の総体が理念と言ってよい。実際にコミケットも、2013年にこうした時代と共に積み重ったコンセプトや解釈を取り込み、理念を全面改訂している。

それゆえ、参加者の意見の積み重ねとして「コミケット的である/ない」すなわち境界が引かれることは「参加者の対等性」によって成立するコミケットであれば、仕方のないことでもある。しかし、真木さんの件で難しさを感じたのは、決してマジョリティでない意見が、SNSによって圧倒的なスピードで拡散し、本人に襲いかかることで、多くの人が認める前から実質的な境界として機能してしまうことである。

こうしたことを予期してか、全面改訂された理念では

しかし、コミケットがあらゆる参加者と表現を受け入れる場であるという自己規定、そうした場を恒久的に継続していくという存在目的、そして恒久的な継続のために変化しつづけるという根本精神は、コミケットコミケットである以上、不変なものだと考えています。

という「自己規定」がされている。サークルスペース/企業ブース違いはあるが、全ての表現をどこかで受け入れる、という決意を携えたのがコミケットであり、今回の申込者である真木さん個人による活動が「法人」で無い以上、サークルで受け入れられる余地は十分にあった、というかサークルで受け入れられて当然だった、と思わずにはいられない。

こういう「参加者によって引かれる表現の境界」に対しては、最も影響力の高い公式メディアが、意見表明を続けていくしかないが、特定サークル (今回は結果として参加していないので尚更) に対する言及がしづらいのもまた事実。こうした背景もあってか、C93カタログに掲載された共同代表3人の鼎談「三匹が斬る!」において、この件が語られていた。ご関心のある方はご覧頂きたい。

表現規制の4つのパターン

Twitterでの話を元に、少し思索を整理したので覚書的に。表現規制についての文脈では、時にレイヤーの違う話が混同されがちである。もちろん、これは同人誌における性的表現に対する規制に限らず、昨今議論が賑やかだった『笑ってはいけない』の黒人メイクや、ベッキータイキックといった議論も、ある程度整理できるとは思う。

現時点での整理としては、表現に対する規制、というか制約要件には以下の4パターンがあると考えている。

  1. 法令、もしくはそれに対する判例
  2. プラットフォームが策定したルール
  3. 1や2のルールが曖昧なことによる自粛・萎縮
  4. 社会やPF上の同調圧力による自粛・萎縮 

1については法令の専門家にお任せするとして、最近の大きな問題は強い「2」(PF上のルール)が、実質的に「1」(法令)のように振る舞ってしまうことである。一例として、性的表現に関しては、各流通プラットフォームがその取扱に関して、

  • わいせつとは性器の露骨な描写とし、修正は商業誌に準じる (コミケットにおける「わいせつ」について、刑法175条を解釈したルール)
  • 東京都から連続3回、1年間に5回不健全指定を受けた雑誌は、書店から申込がない限り送本しない (青少年健全育成条例に基づく、出版倫理協議会の自主規制)

などと定めたルールが、元から存在していた。しかし、独占/寡占的なデジタルプラットフォームの出現に伴い、個別企業による恣意的なルールの運用が、実質的に表現の生殺を定める状況が起こりつつある。Amazonにおける『コミックLO』の取扱中止や、Twitterの同誌アカウント凍結等が一例である。特に巨大なプラットフォームは、社会的責任の名の下に、ノイジーマイノリティな方々の抗議の影響を受けやすい。

児童ポルノのように人権侵害がある場合はともかく、その他ほとんどの表現においては「見たくない」という要望と、「存在してほしくない」というエゴを、冷静に切り分けるべきである。わざわざ自分から探しに行かなければ、目に入ることもない。しかし、デジタルプラットフォームは、全ての表現を自分の隣に置いてしまう。それがゆえに、抗議をよりヒステリックにしている側面もある気がする。

そういう意味では、同人誌即売会という小規模分散かつアナログな流通って、ビジネス的には時代遅れっぽく見えるかもしれないけど、表現を守るという観点では、社会的に大きな意味があると思っている。

 

【予告1】

多くの議論においては1と2すら明確に区別されていなくて、コミケットの前になると「知り合いのスタッフに聞いた今回の修正基準」なるイラスト等が出回っているが、実はコミケットが基準を明確に示さない理由は、コミケット91のアフターレポートに書かれていたりする。このあたりについて、しっかりと読み込んでいきたい。

 

【予告2】

 4の同調圧力が色濃く出たのが、2017年8月ごろにあった真木よう子さんのクラウドファンディングによるコミケット93への参加についての論争であった。

コミケットというプラットフォームの境界条件は、最小限のルールと参加者同士が暗黙に作り上げてきたマナーやモラルによって構成されている。理想的には場が掲げる「理念」に則さないマナー・モラルや、それに基づく同調圧力は消えていくはずであるが、最終的には参加取り下げという形となってしまった。このあたりの要因についても、論じてみたい。

DOUJIN JAPAN 2020 (仮) についての個人的妄想 1

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 12月23日、コミックマーケット準備会から、2020年5月GWにコミケット98が開催されること、そしてそれが『DOUJIN JAPAN 2020(仮)』というプロジェクトの一環として開催されることが表明された。

この、リリースにおいても2020年を「特別な年」(東京オリンピックパラリンピックと書けない苦労が伺える) と位置付け、オタク文化のアピールとサブカルチャーの情報発信をプロジェクトの目的に掲げている。こうしたビジョンと、リリース主体が東京ビッグサイトを利用している7団体ということにはギャップを感じなくもないが、これからどうプロジェクトとして立ち上げていくのか、注目していきたい。

 

2020年は、政府が観光ビジョンにおいて「訪日外国人旅行者 4,000万人の目標を掲げるマイルストーンであり (訪日外国人旅行者の受入環境整備 | 国際観光 | 政策について | 観光庁)、こうした旅行者増加につながるイベント/プロジェクトに対して、支援を受けやすい状況になることも確かだ。

コミケットは、2015年3月の「コミケットスペシャル6 OTAKU SUMMIT 2015」から海外イベントとの交流を急速に強化している。また、同イベントにおいて、オタクイベントの連合であるIOEA (International Otaku Event Association) を立ち上げた際にも、理事の一角を担うなど(日本からのもう一つの理事参加団体はニコニコ超会議)、主体的な役割を果たしている。こうした動きとも何かしらの形でリンクさせ「自由な表現の場」を守る力としていくことを狙っているのだと思われる。

日本の同人文化をアピールするときに留意すべきは、面としての多様性だ。ケットコムを見れば分かる通り、毎週のように日本のどこかで即売会が開催され、年間の同人誌即売会のイベント数は1,000を下らない (最近は数えてない……)。サークルが自主的に企画するオンリーから、各地で定期開催されるシティやスタジオYOUのイベント、コミケットのような巨大なオールジャンルまで、同人誌即売会を一括りにするのは難しい。どのように「草の根」イベントを、それぞれの負担にならない形で巻き込み、外国人を含む相互送客 (客じゃないけど、適切な言葉がないのでご容赦を)につなげていくのか、一個人としていければと思っている。