同人文化講究 (es sphere 2nd season)

同人文化の潮流と即売会での実践についての思索

ヤフコメ的世界観 - 参加者によって引かれる表現の境界

昨年半ばくらいに、Yahoo!がヤフコメ (注釈するまでもないと思うが、Yahoo! ニュースのコメント機能) についてアンケートを取った際、Twitter界隈で少し盛り上がった。ご案内の通り、ヤフコメはヘイト的な言説や悪意のある表現がやたら多い。ヘイトについては色々な人が色々と言っているし、自分も一家言あるわけではないので、どちらかというと悪意のあるコメント-ここでは"嫌いアピール"と呼ぶことにする-について、少し述べた上で同人系の話につなげていきたい。

※ ちなみに、これを書くに当って見たセンター試験地理の『ムーミン』問題のニュースに、韓国語だけ平均点が高いのに得点調整がない、と全然関係ないことを書き込んでいる人がいて、早速がっかりしたのですが……

M-1に始まる年末年始のお笑い番組で、これ新しいなーとか、面白いなーという芸人が出てきて、Yahoo!ニュースに記事が取り上げられていると、必ずやヤフコメに嫌いアピールが出てくる。そりゃ、新しい表現というものはハマる人もいれば、ハマらない人もいる。そこに対して、自分のSNSに単なる感想として「自分にはハマらなかった」と書く(=反論に受けて立つ)ならともかく、敢えて匿名のニュースサイトで書くこと自体が「そうそう、私もつまんなかった」という同意を得て、自分が時代から遅れていないということを確認する作業なのだろう。

ヤフコメの主な層は40代男性ということで、こうした番組が主なターゲットとする(=広告主に取ってCMのROIが高い) F層の対極で、この人達にとってTVやそれが押す芸人が面白くないのは仕方ないといえば仕方ない。ある意味、もう既にフラれてしまっているのに、相手の心変わりを待って色々と言ってみるが、逆効果でさらに嫌われてしまっている状態に近い。

TVには電波の公共財という性格はあるが、番組や芸人っていわゆる嗜好品なのだから、口に合うものもあれば合わないものもある。ニンジンやピーマンと同じく「嫌いなものは食べない」という姿勢になれないんだろうか。嫌いアピールで可能性の芽を摘んでしまうのではなく、それがそこにあること、それを楽しんでいることは否定せず、ゆるやかに構えていたいものである、40代の大人なら特に。

※ そもそも、自分も嫌いならヤフコメ見なきゃよいじゃん……(メタ発言)

過去にコミケットカタログの配置担当者の一言コーナーに「コミケットはあなたの好きなものを守ります、でも嫌いなものも守ります」という言葉があって、相当な感銘を受けた。同人って誰もが創作者になりうるから「相手および相手の表現を悪く言わない」という文化がベースにある。それであっても、ハマらないもの (例: 逆カップリング) に嫌いアピールしてしまう人がいなくならないからこそ、前掲の「一言」なのだろう。

ハマる/ハマらないの議論ならまだ分かりやすいけど (ハマる/ハマらないを覆い隠すダミーの論理なのかもしれないが)、昨夏の後くらいにあった「真木よう子さんがサークル参加を表明、その後SNS上で炎上して参加を断念」という一件における「コミケ的である/ない」あるいは「理念に合致している/いない」論争をふと思い出した。

このとき、ヤフコメの嫌いアピールにも似た、コミケ的でないという言説がSNSで拡散していった。芸能人は商業でやってくれ (叶姉妹TMRは何だったんだ) とか、クラウドファンディングはダメだろ (昔から広告を取っいてる同人誌はいくらでもある) とか、色々な理由は付けられていたが、その言説を論理的に肯定する材料はあまりなかった。

このとき感じたのは、サークルや表現を受け入れる/受け入れないについて、コミケット準備会がルールとして設定したり、それに沿って判断したりという公式の境界以外に、参加者の排除の論理によって引かれる実質的な境界がある、ということである。

コミケットはその理念において

コミケットは場である以上、その実質は参加者や表現によって変化しつづけていきます。そして、この理念や考え方も、コミケットを共にとり行う参加者で共有される以上、時代の要請や参加者の入れ替わりによって変化していくのでしょう

と述べている。以前に論文で述べた立場であるが、コミケットの理念自体が慣習法のようなものだ。当初制定された理念に、前代表や共同代表があいさつ文や拡大集会で述べてきた言説や、岩田次男さんのようなインフルエンサーによる言説等が積み重なり、オリジナルとシミュラークルの区別が付かない、その言説の総体が理念と言ってよい。実際にコミケットも、2013年にこうした時代と共に積み重ったコンセプトや解釈を取り込み、理念を全面改訂している。

それゆえ、参加者の意見の積み重ねとして「コミケット的である/ない」すなわち境界が引かれることは「参加者の対等性」によって成立するコミケットであれば、仕方のないことでもある。しかし、真木さんの件で難しさを感じたのは、決してマジョリティでない意見が、SNSによって圧倒的なスピードで拡散し、本人に襲いかかることで、多くの人が認める前から実質的な境界として機能してしまうことである。

こうしたことを予期してか、全面改訂された理念では

しかし、コミケットがあらゆる参加者と表現を受け入れる場であるという自己規定、そうした場を恒久的に継続していくという存在目的、そして恒久的な継続のために変化しつづけるという根本精神は、コミケットコミケットである以上、不変なものだと考えています。

という「自己規定」がされている。サークルスペース/企業ブース違いはあるが、全ての表現をどこかで受け入れる、という決意を携えたのがコミケットであり、今回の申込者である真木さん個人による活動が「法人」で無い以上、サークルで受け入れられる余地は十分にあった、というかサークルで受け入れられて当然だった、と思わずにはいられない。

こういう「参加者によって引かれる表現の境界」に対しては、最も影響力の高い公式メディアが、意見表明を続けていくしかないが、特定サークル (今回は結果として参加していないので尚更) に対する言及がしづらいのもまた事実。こうした背景もあってか、C93カタログに掲載された共同代表3人の鼎談「三匹が斬る!」において、この件が語られていた。ご関心のある方はご覧頂きたい。